前回に続いて、伊勢・南紀旅行の記事になります。
内宮と外宮に挟まれたエリアの閑静な住宅街のただ中において、思わず振り返ってしまうような風情を持つ木造の建屋。
時代に取り残されたような佇まいの麻吉旅館はかつての遊郭の雰囲気を色濃く伝える、現在でも宿泊可能な希少な旅籠である。
麻吉旅館の発祥については現在も分かってない部分も多いようだが、残された資料や記録からその創業は少なくとも江戸期にまで遡ると言われている。
当時この一帯は古市と呼ばれ、お伊勢参りを終えた参拝客のいわゆる”精進落とし”によって賑わいを見せていたそうだ。
特にお陰参りがブームとなった頃には多くの料亭や置屋が軒を連ね、吉原などと並ぶ一大遊郭街としてその名を知られるようになった。
現在は残念ながら周辺にその面影は残っていないが、こちらの麻吉旅館だけは今も往時のままその姿を留めている。
麻吉旅館の一帯は傾斜地になっており、その斜面に沿って建つこちらの旅籠には”懸崖(けんがい)造り”と呼ばれる、清水寺などと同じ建築様式が取り入れられている。
外からは分かりづらいが、こちらは実に五階建ての巨大木造建築なのである。
今回タクシーが到着したのは図の左側・地上四階に相当する比較的高層にあたる部分。
なお図の右側の低くなっている先は道路となっていて、坂を下りきると目の前を横切るように大きな国道が走っていた。
到着時は丁度宿の方が表に出ており、声をかけてそのままチェックインをさせてもらった。
今回宿泊するのは図の四階部分にあたる”もくれん”のお部屋。
部屋の周囲の空間は共有スペースとなっているが、今回は宿泊客が自分らのみということで実質貸切で利用することができた。
木組みの窓はガラスの一部が緑色の透かしになっており、これまた素敵である。
玄関の裏には大きな木製の門扉が備え付けられており、夜間には引き戸ではなくこちらがそのまま扉となって施錠の役割を果たす。
かなり昔からあると思われる下駄箱。
流石文化財登録の宿だけあって、置いてあるものすべてが今では貴重な品ばかりだ。
もくれんのお部屋には、共有スペースに面したふたつの出入り口がある。
ひとつが部屋に向かって左側のふすまの出入口で、もうひとつが右手にあるドアの出入り口。
こちらは扉を開けるとそのまま部屋の広縁へとつながっている。
室内は8畳ほどで、二人で過ごすには十分すぎるくらいの広さであった。
室内はよく清掃が行き届いていて、良い意味で古さを感じさせない。
荷物を置いて一息ついた後はさっそく館内探索へ。
室内を縦横無尽に走る、忍者屋敷のような階段たち。
ハシゴのような傾斜の急な階段を降りると、湯治宿などでよく見かけるレトロな雰囲気の洗面所が。
階段を下ったこのエリアは三階に相当する箇所。
廊下を少し進むと、なにやら下の階に向かって吹き抜けのようになっている場所がある。上から覗いてみると、なんと昔の炊事場がそのまま残されていた。
このかまどは現在はさすがに使われていないようだが、往時の様子を想起させる貴重な史料であることには変わりがない。それこそ博物館の展示品と言われても違和感がないほど。
このような性質の宿であるから、麻吉旅館へはこれまで多くの文化人が長きに渡り訪れている。滞在中も館内のあちこちで、彼らの残した写真やサインなどを見ることができた。
三階部分にある玄関を室内側から望んだ様子。
こちらの玄関に向かって左手部分からは、なんと隣の離れへと続く橋が架かっている。
この橋の先にある部屋は食事会場として使われていたが、そこへ至るアプローチさえもこのように遊郭ならではの醍醐味に満ちたものとなっている。
ここからは、そんな素敵な場所での夕餉の模様を紹介していこうと思う。
麻吉旅館 夕食
今回通されたのは橋を渡った先の離れにある一角だが、こちらがまた花街の料亭の雰囲気が存分に感じられるような、素敵なお部屋だった。こんなにテンションの上がる食事会場はなかなか無いと思う。
食事はコース形式で、一品ずつ時間を見計らって出してくれる感じ。
料理の盛り付けや器なども非常に美しく、見ているだけで気分が盛り上がった。
花札のような柄をしたお箸袋。
お造りは鯛と綺麗な色をしたトンボマグロの二種盛り。
生ワカメに味噌を和えたもの。使われていたのは多分酢味噌?で、日本酒のいいアテになった。
ブリの切り身を煮物で。こちらは見た目通りあっさりした味わい。
あおさをふんだんに使った茶碗蒸し。自分は茶碗蒸しが大好きなので、コースに入っているだけでも嬉しくなる。おすすめされた三重の地酒・瀧自慢をちびちびと頂きながら〆。
これにもう一品魚の焼き物があったような気もするのだが、飲んでいて取り忘れたのか写真は無かった(笑)
全体的に派手なメニューはあまりなく、伊勢の海の幸を中心とした素朴な味わいの品が多かったように思う。
自分は酒を飲むので丁度よかったが、人によってはちょっと量が少なく感じるかも。
いわゆる旅館の夕食の盛り沢山な感じはない。
まあこれ以外に一品を別注することもできるので、足りなければそちらでお腹を満たすのもいいだろう(今回母は伊勢うどんを追加した)。
その後は夜の外観を撮りたかったので、散歩も兼ねて一旦建物の外に出た。
日中もいいが、こちらはやはり夜のほうが艶めかしい雰囲気で素敵だ。
石段に沿って建物の下層方向、国道側へと下ってみる。
通学路なのか夕方には学校帰りの子供たちの声が響いていたが、夜は静寂そのものである。
漆黒の闇を背後に佇む、本館と離れにまたがる屋根付きの橋。
ライトアップのお陰でその存在感が一層増したような気がする。
階段を下りて反対側からも眺めてみる。
こうしてみると、まるで往時の古市の賑わいが眼前に蘇ってくるようである。
ここの一帯だけは本当に別世界で、タイムスリップしたような気分を味わえる。
ひとしきり外観は撮り終えたので、次は館内である。
しんとした静けさに包まれた、夜の旅籠ならではの味。
すでに日中に写真を沢山撮っているのに、その魅力に抗えずついふらふらと館内を歩きまわってしまう。
ああ、なんという幸せな時間か。
夜の遊郭の雰囲気も存分に堪能できたので、一日の汗を流しに宿のお風呂へ。
貸切制の家族風呂には昔ながらのステンレスの浴槽が残る。
そして風呂上りにはもちろんこれも。
コンビニで買ったご当地ビールの伊勢角屋麦酒。どちらもクラフトビールらしいフルーティーな味わいで飲みやすかった。この手のビールは普段飲まないので、旅行先ではあえて買ってみたりしている。
その後は話をしたり小説を読んで時間を過ごしながら、静かに伊勢の夜を過ごした。
麻吉旅館 朝食
橋を渡って昨日の食事会場へ。日が差した日中の明るい雰囲気も捨てがたい。
朝食はシンプルな和定食だった。
朝から伊勢の海のごちそうを頂けてまさに幸せいっぱいである。
お腹も満たされて、あとはゆっくりと出発の時を待つばかりだったが、チェックアウト前に建物の五階部分・最上階にそびえる大広間の聚遠楼(じゅえんろう)を見学させてもらうことができた。
大きな窓に沿って直角に伸びる美しい板張り。背後の緑もいい感じである。
30畳ほどの大広間には、その調度品の様子も相まって往時のお茶屋の雰囲気が克明に残っている。芸者たちが抱えられていた頃のかつての情景が、まざまざと浮かんでくるようだった。
ちなみにこちらは主に団体向けだが、宿泊部屋として利用することも可能なのだとか。
家族や友人同士で集まって、語らいながら酒を酌み交わしたりしても楽しそうだ。
さて、チェックアウトの時間も近づいてきた。
名残惜しいが、支度をして次なる目的地・和歌山に向けての出発の準備である。
次の記事では、そちらでの観光の模様を書いていこうと思っている。
まとめ
麻吉旅館はその評判に違わず、江戸期からの歴史と情緒を併せ持っている類いなき旅籠だった。
「泊まれる遊郭建築」としての希少性は勿論の事、提供される食事も非常に満足がいくもので、個人的にはどんな人にも勧めることができる場所だ。
お伊勢参りの際などにはぜひこちらに宿泊して、先人たちに思いを馳せながらしっぽりと伊勢の夜を過ごしてみるというのは如何だろうか。
歴史や遊郭に特別に興味がなかったとしても、必ずや思い出深い体験になる筈である。
それでは。